連載「銀河英雄伝説が現代に突きつける言葉たち」第1回
本連載では、引用文の出典を「(第○巻・第○章)」の形式で記載しています。引用の母集団は第1巻から第10巻までの読書メモ(一覧表)に基づきます。
はじめに
投票に行かない。ニュースは見るが、議論には入らない。「どうせ変わらない」「どいつもこいつも同じだ」――そんな空気は、今に始まったことではない。だが、民主主義をめぐるこうした態度を、三十年以上前のSF小説が、驚くほど冷徹に言い当てている。田中芳樹の『銀河英雄伝説』は、宇宙規模の戦争と英雄譚の皮をかぶった政治小説でもある。そこに散りばめられた言葉のいくつかは、今日読んでも生々しく、むしろ時代を越えて鮮明になっている。
この連載では、作品から拾い上げた「ことわざ風」の引用を手がかりに、テーマごとに読み解いていく。第1回の焦点は、民主主義がいちばん傷つきやすい急所――人はなぜ、自由と引き換えに「面倒のうつ先」や「責任の免除」を選びたくなるのか――である。
命令と従属のほうが、なぜ「楽」に見えるのか
物語序盤、銀河帝国の歴史を俯瞰する「序章」で、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの登場がこう評される。
ルドルフの登場は、民衆が根本的に、自主的な思考とそれにともなう責任よりも、命令と従属とそれにともなう責任免除のほうを好むという、歴史上の顕著な例証である。民主政治においては失政は不適格な為政者をえらんだ民衆自身の責任だが、専制政治においてはそうではない。民衆は自己反省より、気楽かつ無責任な為政者の悪口を言える境遇を好むものだ(第1巻・序章)
「考えること」「選ぶこと」「結果の責任を引き受けること」は、負荷が大きい。一方、命令に従い、失敗の責任を誰かのせいにできる構造は、精神衛生のうえでは楽に見える。ルドルフは、そうした土壌のうえに立った存在として描かれる。
現実世界でも、複雑な課題を「単純な答え」に置き換えてくれる言葉や、強いリーダーへの期待は、しばしば歓迎される。SNSでは、短文で敵味方をはっきりさせる投稿が拡散しやすい。銀河系の話ではないが、思考を停止させ、判断を委ねる快楽の構図は、よく似ている。
支持しなくても、見ているだけで足りない理由
ヤン・ウェンリーの養父は、若いヤンにこう言う。
独裁者は出現させる側により多くの責任がある。積極的に支持しなくても、黙って見ていれば同罪だ(第1巻・第一章)
「支持していない」は、ときに「反対している」とは別物だ。選挙に行かない、声を上げない、公共の議論から身を引く――それが積み重なると、結果として動いているのは、誰のための政治か。養父の言葉は、道徳の説教というより、沈黙が持つ政治的な重みについての指摘に聞こえる。
「自分は関係ない」は、一見すると中立だが、状況によっては現状維持への加担でもある。銀英伝が繰り返し問うのは、自由にはコストがつきまとうという当たり前で、忘れがちな事実だ。
腐敗した民主と清潔な独裁――答えのない選択
物語が中盤にさしかかると、自由惑星同盟の腐敗と、ラインハルト・フォン・ローエングラム率いる帝国の勢いが対照として強まる。そのなかで、ヤンはこう語る。
腐敗した民主政治と清潔な独裁政治のいずれをとるか、これは人類社会におけるもっとも解答困難な命題であるかもしれない(第4巻・第五章)
民主主義は、議会の空転、醜い妥協、説明責任の重さを、ありのまま見せる。対して、「強い意志」と「迅速な決断」を前面に出す体制は、物語のなかでは魅力的に描かれることがある。読者ですら、「効率のよさ」に心が揺れる。
だが、作品はここで安易な答えを出さない。代わりに、次のような歴史認識を差し込む。
最悪の専制は、破局のあとに最善の民主政治を生むことがあるのに、最悪の民主政治が破局のあとに最善の専制を生んだことは一度もない(第5巻・第七章)
つまり、専制から民主への道は、物語のなかでも現実の歴史でも「起こりうる」一方、民主の失敗のあとに「理想的な専制」が安着した例を、ここでは認めていない。これは思想の正しさを証明する公式ではない。だが、「一度手放した制度を、よりよい形で取り戻すのは難しい」という冷たい視線として、読者の胸に残る。
民主主義が面倒な本当の理由
ヤンは、専制政治について、次のように言う。
専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきるのです(第5巻・第九章)
民主主義では、選挙結果も政策の失敗も、最終的には「私たちが選んだ」「私たちが見過ごした」という形で、市民に返ってくる。面倒で、不快で、ときに耐え難い。だが、それが権利とセットになった責任であるなら、専制のもとで「上が悪い」で済ませる快適さと、どちらを選ぶかは、単純な善悪の問題ではない。
銀英伝の名言は、「民主主義を守れ」と叫ぶスローガンにはなっていない。むしろこう問う。本当に、そのコストを払う覚悟があるのか、と。
物語の後半が重ねる警告(第7〜10巻)
前半の引用だけでも論旨は通る。だが、作品は後半巻で、ほぼ同じ関心を別の語彙で補強する。
従属の快楽。 ユリアン・ミンツの視点から、こう述べられる。
誰かに命令され、誰かに従属して生きるほうが楽なのだ。それこそが、専制政治を、全体主義を人々がうけいれる精神的な土壌なのだった(第7巻・第二章)
柵のなかの家畜。 民主と専制が心のなかに並存するという前提のもと、従属を選ぶ生き方の落とし穴が、長い比喩で示される。
人間の心に二面性が存在する以上、民主政治と専制・独裁政治も時空軸上に並存する。どれほど民主政治が隆盛を誇っているかのような時代でも、専制政治を望む人々はいた。他者を支配する欲望によるだけではなく、他者から支配され服従することを望む人がいたのだ。そのほうが楽なのだ。してもよいことと、やってはいけないことを教えてもらい、指導と命令に服従していれば、手のとどく範囲で安定と幸福をあたえてもらえる。それで満足する生きかたもあるだろう。だが、柵の内部だけで自由と生存を認められた家畜は、いつの日か、殺されて飼育者の食卓にのぼらされるのである。(第8巻・第二章)
救世主待望。 民主共和主義の対極として、こう一刀で切られる。
民主共和主義の対極に立つ思想は、救世主待望思想である(第10巻・第六章)
そして物語の終盤、政治への諦めと無関心に、最も厳しい言葉が突きつけられる。
〝政治なんておれたちに関係ないよ〟という一言は、それを発した者にたいする権利剝奪の宣告である。政治は、それを蔑視した者にたいして、かならず復讐するのだ。ごくわずかな想像力があれば、それがわかるはずなのに。(第10巻・第十章)
第1巻の「責任免除の好み」という主題は、ここで「無関心は権利の放棄である」という形で再掲される。銀河の彼方の話は、個人の日常の政治感覚にも、重ね読きできる。
(任意)善政の甘さと、権力を監視する理由
第6巻では、ヤン自身の独白として、専制君主の「善政」がもつ危うさが語られる。要約すれば、参加も発言も思考もせず、上が正しく統治してくれるなら、誰が面倒な政治に関心を持つだろうか、という問いだ。だが、為政者も人間である以上、いつか権力に飽き、無制限の権力を私的な欲望に使いはじめるかもしれない。だから権力は、制限され、批判され、監視されるべきだ――と。
このパラグラフは、前半の引用だけでは足りない「なぜ民主主義の面倒くささを引き受けるのか」の補助線になる。善政の甘い夢を信じすぎないために、制度と言論の空間が要る、という発想である。
まとめ・次回予告
第1回でたどったのは、民主主義の急所が「自由のコスト」と「責任の所在」に集まっている、という一点だ。銀河英雄伝説は、読者に正しい政党名や制度設計を教える小説ではない。だが、お前たちは本当にそのコストを払う覚悟があるのか、と問いかける小説でもある。
次回は、正義を信じることの危うさに踏み込む。「自分の正しさを確信したとき、人は最も残酷になる」――その言葉を手がかりに、主観的な善と善の相克について読み解く。
初出:読書メモに基づく個人ブログ用原稿。作品引用は版・訳により表記が異なる場合があります。
