連載「銀河英雄伝説が現代に突きつける言葉たち」第2回
本連載では、引用文の出典を「(第○巻・第○章)」の形式で記載しています。引用の母集団は第1巻から第10巻までの読書メモ(一覧表)に基づきます。
はじめに
第1回では、民主主義の急所として「責任の所在」と「自由のコスト」を取り上げた。今回は、その隣に横たわる、もうひとつの地雷原に踏み込む。正義である。
SNSの炎上、キャンセル、公開処刑のような空気――「自分は正しい」「相手は許されない」と信じた瞬間、人は驚くほど容赦なくなる。悪意があるからではない。善意と正義感が、歯止めを外すことがある。田中芳樹の『銀河英雄伝説』は、銀河規模の戦争のなかで、その構造を容赦なく描いている。
悪を倒す物語の向こう側にあるもの
物語の前半、宗教や正義をめぐる議論のなかで、こう言い切られる。
人間の歴史に、〝絶対善と絶対悪の戦い〟などなかった。あるのは、主観的な善と主観的な善とのあらそいであり、正義の信念と正義の信念との相克である。一方的な侵略戦争の場合ですら、侵略する側は自分こそ正義だと信じているものだ。戦争が絶えないのはそれゆえである。人間が神と正義を信じているかぎり、あらそいはなくなるはずがない(第2巻・第七章)
娯楽作品では、「悪」を倒せばスッキリする。だが歴史の現場では、しばしば双方が自分を善だと信じている。だから話が通じない。だから終わりが遅れる。銀英伝がここで突きつけているのは、道徳の相対主義というより、紛争の現実記述に近い。
信念は、根拠ではなく「願い」から生まれる
同じ場面で、信念そのものがこう定義される。
信念とは願望の強力なものにすぎず、なんら客観的な根拠をもつものではない。それが強まれば強まるほど、視野はせまくなり、正確な判断や洞察が不可能になる。(第2巻・第七章)
耳が痛い。私たちは「信念」を美徳の言葉として使いがちだが、作品は強い願いに過ぎない、と言う。そして強ければ強いほど、周囲が見えなくなる。
フィルターバブルやエコーチェンバーは、技術の問題に見える。だが根には、自分の物語を守りたいという欲望がある。銀河の戦争と、タイムライン上の争いは規模が違うだけで、心の動きは重なる。
人間がいちばん残酷になる瞬間
ヤン・ウェンリーは、ユリアンに向けて、さらに厳しい言葉を重ねる。
絶対的な善と完全な悪が存在する、という考えは、おそらく人間の精神をかぎりなく荒廃させるだろう。自分が善であり、対立者が悪だとみなしたとき、そこには協調も思いやりも生まれない。自分を優越化し、相手を敗北させ支配しようとする欲望が正当化されるだけだ。(第4巻・第五章)
人間は、自分が悪であるという認識にたえられるほど強くはない。人間がもっとも強く、もっとも残酷に、もっとも無慈悲になりうるのは、自分の正しさを確信したときだ。(第4巻・第五章)
正しさの確信は、弱さの裏返しでもある。自分が悪いかもしれない、と考え続けるのは消耗する。だから人は「私は善だ」と決めつけたくなる。そこから、相手を人間としてではなく、障害として扱い始める。
宗教戦争や思想弾圧の歴史は、例外ではなかった。ネット上の「正義」の暴走も、構造は似ている。銀英伝は、特定の陣営を名指しで断罪する小説ではない。だからこそ、読者は自分の胸に手を当てざるを得ない。
「よりまし」を選ぶしかない世界で
だからといって、価値判断をすべて投げ捨てろ、とは作品は言わない。次のように落とし所が示される。
ものごとの価値観、正邪の判断の基準がすぐれて相対的なものであるということは、いくら強調しておいてもよいだろう。人間のなしうる最良の選択は、視野に映る多くの事象を比較対照して、よりましと思われるほうに身をおくことしかない。(第4巻・第五章)
完全な善の存在を信じる人は、〝平和のために戦う〟という表現にふくまれる矛盾の巨大さをどう説明しうるのか。(第4巻・第五章)
「平和のために戦う」――聞こえは良い。だが、戦うという行為そのものが平和と相克する。完全な善を信じきっていると、その矛盾を見えなくする。銀英伝が求めているのは、完璧な正義ではなく、不完全な選択への目線の低さだ。
物語の後半が重ねる――化粧、狂信、そして「誰のため」か
前半の論理は、後半巻で別の比喩と語彙に補強される。
信念は化粧。 ヤンはこう言う。
「信念とは、あやまちや愚行を正当化するための化粧であるにすぎない。化粧が厚いほど、その下の顔はみにくい」 「信念のために人を殺すのは、金銭のために人を殺すより下等なことである。なぜなら、金銭は万人に共通の価値を有するが、信念の価値は当人にしか通用しないからである」(第6巻・第二章)
第2巻の「信念=願望」と並べると、同じ関心が、より痛烈なイメージで繰り返されているのがわかる。
権力と「正しさ」の資格。 相続というテーマは一見ずれるが、努力も実績もなく正義のレッテルを貼れる立場への嫌悪とつながる。
この世でもっとも醜悪で卑劣なことはな、実力も才能もないくせに相続によって政治権力を手にすることだ。それにくらべれば、簒奪は一万倍もましな行為だ。すくなくとも、権力を手にいれるための努力はしているし、本来、それが自分のものでないことも知っているのだからな(第6巻・第四章)
狂信と煽動。 事実より幻想を好む心、論理の代わりに感情を充てる技術。
狂信者に必要なものはありのままの事実ではなく、彼の好みの色に塗りたてた幻想である。(第8巻・第二章)
なぜ、という、もっとも重要な論理の核をあいまいにして、感情に代用させるのが、煽動というものである。古来、宗教的憎悪にもとづく戦いがもっとも激烈で容赦のない戦禍をまねくのは、戦意とは感情に起因するものであって理念から発生するものではないからだ。敵にたいする憎悪ないし嫌悪、味方の指導者にたいする忠誠、すべて感情の支配するところである。(第8巻・第四章)
そして、主義の名と人の顔をはっきり分ける一文。
人間は主義だの思想だののためには戦わないんだよ! 主義や思想を体現した人のために戦うんだ。革命のために戦うのではなくて、革命家のために戦うんだ。(第8巻・第六章)
スローガンは美しい。だが、銃を取る理由を「理念」だけで完結させると、人は軽くなる。作品は、理念の向こう側にいる具体的な人間に目を向けさせる。
まとめ・次回予告
銀英伝が提案しているのは、「正義を捨てろ」ではない。自分の正義を、ときどき疑え、ということだ。確信は快楽をくれるが、同時に残酷さの燃料にもなる。相手を悪と決めつけた瞬間、対話は終わる。
次回は、戦争と愛国心、そして「安全な場所から戦争を賛美する者たち」へ――ヤン・ウェンリーの言葉が、なぜ何度も繰り返されるのか、に触れる。
初出:読書メモに基づく個人ブログ用原稿。作品引用は版・訳により表記が異なる場合があります。
