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「国家なんてものはたんなる道具にすぎない」――『銀河英雄伝説』に見る国家観

連載「銀河英雄伝説が現代に突きつける言葉たち」第4回


本連載では、引用文の出典を「(第○巻・第○章)」の形式で記載しています。引用の母集団は第1巻から第10巻までの読書メモ(一覧表)に基づきます。


目次

はじめに

第3回では、戦争を後方から美しく語る論理と、軍事が政治の代わりになりえないことに触れた。今回は、その「国」そのものを、もう一段、根本から問い直す。

私たちは日常で「国のために」「国を守る」という言葉を使う。だが国とは何か。ヤン・ウェンリーの答えは、愛国心のスローガンとは相容れないほど明快だ。国家は、たんなる道具にすぎない、と。


道具である以上、信仰の対象ではない

ユリアンに向けて、ヤンは何度も同じ種類の言葉を返す。

ユリアン、国家なんてものはたんなる道具にすぎないんだ。そのことさえ忘れなければ、たぶん正気をたもてるだろう(第4巻・第五章)

続けて、国家観の芯がこう展開される。

人類の文明が生んだ最悪の病は、国家にたいする信仰だろう、と、ヤンは思う。だが、国家とは、人間の集団が生きていくうえで、たがいの補完関係を効率よくすすめるための道具であるにすぎない。道具に人間が支配されるのは愚かしいことだ。いや、正確には、その道具のあやつりかたを心得ている極少数の人間によって、大多数の人間が支配されるのだろう。そんな連中にユリアンが支配される必要はない。(第4巻・第五章)

「信仰」と「道具」は、温度が違う。信仰は献身的で美しく聞こえるが、ヤンに言わせれば思考停止の入り口でもある。道具であれば、用途を問い、手入れをし、使いすぎに気をつけることができる。逆に、国家を崇めるほど、人は制度の目的を忘れ、誰がてこ入れしているかを見なくなる。


サングラスをかけたまま世界を見ない

国家を通してだけ事象を見ると、視界は狭まる。

国家というサングラスをかけて事象をながめると、視野がせまくなるし遠くも見えなくなる。できるだけ、敵味方にこだわらない考えかたをしてほしいんだ、お前には(第5巻・第五章)

敵味方のレッテルは、理解を早める代わりに、事実の輪郭を削る。銀河規模の戦争ものだからこそ、「この国」「あの国」だけで語れるほど単純ではない、という警告でもある。

さらにヤンは、国家の「永続」を揶揄する。

どれほど非現実的な人間でも、本気で不老不死を信じたりはしないのに、こと国家となると、永遠にして不滅のものだと思いこんでいるあほうな奴らがけっこう多いのは不思議なことだと思わないか(第4巻・第五章)

個人の死は認めても、国家の終わりは想像しにくい。だが歴史上、消えた国家は数えきれない。永遠の国という前提は、政策の失敗や制度改革の必要性から目をそらす効果もある。


国家は強大だが、個人の自由より重くはない

道具とはいえ、国家が持つ力は恐ろしい。

まことに、国家というものは、死者をよみがえらせる以外のことは、すべてなしうる力を有している。犯罪者を免罪し、その逆に無実の者を牢獄へ、さらに処刑台へと送りこみ、平和に生活する市民に武器をもたせて戦場へとかりたてることもできるのだ。軍隊とは、その国家において、最大の組織された暴力集団なのだ。(第3巻・第九章)

だからこそ、ヤンは戦場でこんな皮肉も言う。

かかっているものは、たかだか国家の存亡だ。個人の自由と権利にくらべれば、たいした価値のあるものじゃない……(第2巻・第五章)

文脈は戦いの直前であり、兵士への配慮や緊張緩和も含む。それでも一貫しているのは、制度や国家の存続が、人間の尊厳の上位に自動的に置かれてはならないという価値の順序だ。国家は強い。だからこそ、それを目的化してはいけないという倫理が裏打ちされている。


主権国家という麻薬と、市民の抵抗権

物語の後半、ヤン自身の独白と、民主市民としての線引きが補強される。

人類が主権国家という麻薬に汚染されてしまった以上、国家が個人を犠牲にしない社会体制は存在しえないかもしれない。しかし、国家が個人を犠牲にしにくい社会体制には、志向する価値があるように思えた。(第6巻・第八章)

理想の完全防波堤はないかもしれない。それでも犠牲を最小にする方向には、立ち向かう価値がある――という現実的な希望だ。

そして、国家が自ら定めた法を破るとき、市民に何が求められるか。

法にしたがうのは市民として当然のことだ。だが、国家がみずからさだめた法に背いて個人の権利を侵そうとしたとき、それに盲従するのは市民としてはむしろ罪悪だ。なぜなら民主国家の市民には、国家のおかす罪や誤謬にたいして異議を申したて、批判し、抵抗する権利と義務があるからだよ(第6巻・第五章)

不当な待遇や権力者の不正をうけいれ、それに抵抗しない者は、奴隷であって市民ではなかった。自分自身の正当な権利が侵害されたときにすら闘いえない者が、他人の権利のために闘いうるはずがない。(第6巻・第五章)

「愛国=盲従」とは逆の、民主主義の市民の厳しさがここにある。


まとめ・次回予告

「国家は道具」は、冷たい虚無の宣言ではない。人間が人間であるために、制度をどこに置くかを言い直した知恵に近い。信仰に預けるほど、道具の手入れから手が離れる。

次回は、山を定める政治と、登る戦術――『銀河英雄伝説』に散りばめられた戦略論を、仕事や組織の話にも接続しながら読み解く。


初出:読書メモに基づく個人ブログ用原稿。作品引用は版・訳により表記が異なる場合があります。

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この記事を書いた人

人間とは何か、暮らしとは何か。
そんな関心を出発点に、農・経済・歴史・生活・哲学・科学を横断しながら書いています。
食や土地の話を入口に、制度や社会の動きを見つめ、歴史の流れをたどり、哲学で問いを深め、科学で確かめる。
一念三千を胸に、日々のことを少し広く、少し深く考えるブログです。

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