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スタートレックのビーム転送で「本人」はどうなるのか

目次

インテンショナリティとパーフィットの人格同一性から考える

スタートレックのビーム転送を考えると、多くの人が一度はこんな疑問を持ちます。

転送前の人と、転送後の人。いったいどちらが本物なのか。

見た目も記憶も性格も同じなら、転送後の人は元の人そのものなのでしょうか。
それとも、元の人は消えてしまい、転送後に現れるのは「よくできたコピー」にすぎないのでしょうか。

この問いは、単なるSFの話ではありません。
「私とは何か」「同じ人であり続けるとはどういうことか」という、哲学の核心に触れる問題です。

この記事では、この問題を考えるために、特に重要な二つの考え方を使います。
それがインテンショナリティと、デレク・パーフィットの人格同一性論です。

結論を先に言えば、ビーム転送後の人は、主観的にも人格的にも“本人”とみなす強い理由がある一方で、「唯一のオリジナルはどちらか」という問い自体は、あまり本質的ではなくなる、という整理になります。

そもそもビーム転送の何が問題なのか

ビーム転送の場面を単純化すると、こうなります。

ある人物Aが転送装置に入り、身体の情報が読み取られ、別の場所で人物Bとして再構成される。
するとBは、Aと同じ顔、同じ身体、同じ記憶、同じ性格を持っています。
B自身も「自分はさっきまであちらにいた」と感じるでしょう。

ここで問題になるのは、Bは本当にAなのかという点です。

日常生活では、人は連続した身体を持ち、場所を移動しても同じ人だと考えます。
しかしビーム転送では、その連続性が揺らぎます。
Aが分解され、別の場所でBが作られるなら、それは「移動」なのか、それとも「消滅と再生」なのか。

この問いに対して、インテンショナリティとパーフィットの考え方は、非常に有効な視点を与えてくれます。

インテンショナリティとは何か

まず、インテンショナリティとは、哲学でいう意識の志向性のことです。
少し難しく聞こえますが、意味は比較的シンプルです。

人間の意識は、いつも何かに向かっています。
私たちは、ただぼんやり意識しているのではなく、

  • 何かを見ている
  • 何かを考えている
  • 何かを心配している
  • 何かを望んでいる

というように、意識は常に対象を持っています。

たとえば、「明日の会議が気になる」というとき、意識は“明日の会議”に向かっています。
「私は将来こうなりたい」と思うとき、意識は“未来の自分”に向かっています。
これがインテンショナリティです。

ビーム転送をインテンショナリティで見るとどうなるか

ビーム転送の直前、人物Aがこう考えていたとします。

「転送してほしい」
「向こう側へ行きたい」
「転送後も自分が任務を続けるはずだ」

このときAの意識は、転送後の存在を未来の自分として志向しています。
つまりAは、転送後に現れる存在を、最初から「他人」ではなく「自分の続き」として意味づけているのです。

さらに、転送後の人物Bもこう考えるでしょう。

「私はさっきまで転送装置にいた」
「私は今も同じ任務の途中にある」

Bの意識は、Aの過去を自分自身の過去として志向しています。
この意味で、AとBのあいだには主観的な連続があります。

ここから言えるのは、インテンショナリティの観点では、転送後の人は“自分の続き”として経験されるということです。
少なくとも本人の内側から見れば、自己は途切れていないように見えるのです。

ただし、インテンショナリティだけでは決着しない

ただし、ここで話は終わりません。
なぜなら、インテンショナリティはその人が自分をどう経験しているかを説明するには強いものの、その人が唯一のオリジナルかどうかまでは決められないからです。

わかりやすいのは、複製事故の思考実験です。

もし何らかのトラブルで、Aが消えずにそのまま残り、同時にBも現れたらどうなるでしょうか。
Aも「私が本人だ」と言えるでしょうし、Bも同じように「私が本人だ」と言えます。
どちらも同じ過去を自分のものとして語れます。

このとき分かるのは、主観の側から“私は私だ”と感じることだけでは、唯一の本物を決められないということです。

ここで登場するのが、パーフィットの人格同一性論です。

パーフィットは「オリジナルかどうか」にこだわらない

イギリスの哲学者デレク・パーフィットは、「人が同じ人であり続けるとはどういうことか」を深く考えた人物です。
そして彼は、私たちが普通重視しがちな“唯一の同一人物であること”を、それほど決定的なものとは見ませんでした。

パーフィットが重視したのは、心理的連続性心理的結びつきです。

たとえば、ある時点の自分と未来の自分のあいだに、

  • 記憶のつながりがある
  • 性格が受け継がれている
  • 意図や価値観が続いている
  • 過去の経験が現在の判断に影響している

といった関係があるなら、それで十分に「自分が続いている」と言えるのではないか。
これがパーフィットの基本的な方向性です。

つまり、彼にとって本当に大事なのは、厳密に一人の同じ人間かどうかではなく、その人にとって重要な心理的内容がどれだけ継続しているかなのです。

ビーム転送後の人は、パーフィットから見るとどう評価されるか

転送後の人物Bが、

  • Aの記憶を持ち
  • Aの性格を持ち
  • Aの価値観を引き継ぎ
  • Aの計画や人間関係をそのまま受け継いでいる

なら、BにはAとのあいだに強い心理的連続性があります。

この場合、パーフィットの観点からは、
BがAと厳密に数的同一であるかどうかを問うよりも、
Aにとって重要だったものがBの中に続いているかを見るべきだ、ということになります。

その答えが「はい」であるなら、Bは重要な意味でAの存続だと考えられます。

つまり、パーフィットに従えば、ビーム転送後の人は「唯一のオリジナル」である必要はなく、人格的には十分に本人であると言えるのです。

インテンショナリティとパーフィットはどうつながるのか

ここで、二つの考え方がきれいにつながります。

インテンショナリティは、私は続いていくという主観の構造を説明します。
転送前のAは転送後の存在を未来の自分として志向し、転送後のBもまたAの過去を自分の過去として経験します。
そこには、主観的な自己継続があります。

一方、パーフィットは、その自己継続が単なる思い込みではなく、記憶・性格・意図・価値観の継続として成立しているかを問います。
そして、それが十分に保たれているなら、「唯一の本物かどうか」にこだわる必要は薄いと考えます。

言い換えれば、
インテンショナリティは“内側から見た自己の継続”を示し、パーフィットは“その継続に何が必要か”を理論化するのです。

それでも「コピーではないか」という違和感が残る理由

ここまで読むと、「でもやはりコピーではないか」と感じる人も多いはずです。
その違和感は自然です。

なぜなら、私たちはふだん、人格を記憶や性格だけでなく、この身体を生きている自分として感じているからです。
もし身体が一度完全に分解され、別の場所で再構成されるなら、どうしても「元の自分はそこで終わっているのではないか」という印象が残ります。

この感覚は、身体的連続性を重視する立場に近いものです。
その立場から見ると、いくら記憶や性格が同じでも、転送後の人はあくまで複製に見えるでしょう。

しかしパーフィットは、そこにさらに神秘的な「本当の自己」があると考える必要はないのではないか、と問います。
私たちが大事にしているものが実際に継続しているなら、それで十分ではないか。
この問いかけが、ビーム転送問題を特別に面白くしているのです。

複製問題が示すもの

この議論で特に重要なのは、複製の可能性です。

もしAからBとCが同時に作られ、BもCもAの記憶・性格・価値観を持っていたらどうなるでしょうか。
このとき、BもCもAとの強い心理的連続性を持つことになります。
つまり、どちらもAの「続き」でありうるのです。

ここから分かるのは、人格の存続は、必ずしも一つに限定される必要がないということです。
だからこそパーフィットは、「唯一のオリジナル」という問いよりも、どれだけ強く連続性が保たれているかを重視します。

これは直感には少し反するかもしれません。
しかし、ビーム転送のような思考実験では、この見方のほうが矛盾を少なく説明できます。

結論:ビーム転送後の人は「本人」と考えてよいのか

インテンショナリティとパーフィットの人格同一性を中心にまとめると、答えはこうなります。

転送前の人は、転送後の存在を未来の自分として志向しています。
そして転送後の人もまた、転送前の記憶や意図や価値観を自分のものとして引き継ぎます。
この意味で、主観的にも人格的にも、転送後の人は強く「本人」です。

ただし、唯一のオリジナルはどちらかという問いになると、話は変わります。
パーフィットの立場では、その問い自体があまり重要ではありません。
重要なのは、厳密な意味での数的同一性ではなく、心理的連続性が保たれているかどうかだからです。

したがって、ビーム転送後の人は、
唯一の本物かどうかは別として、人格的には十分に本人とみなせる
というのが、この二つの考え方を組み合わせた結論になります。

まとめ

スタートレックのビーム転送は、単なるSFの仕掛けではなく、私とは何かを問う哲学的な装置でもあります。

インテンショナリティの観点では、転送前の人も転送後の人も、自己を連続したものとして経験しています。
つまり、主観の内側では「私は続いている」と感じられます。

パーフィットの人格同一性論では、その自己継続は、記憶・性格・意図・価値観の連続として理解されます。
そして、その連続性が十分に保たれているなら、唯一のオリジナルかどうかにこだわらなくても、重要な意味でその人は存続していると考えられます。

要するに、
インテンショナリティは“私は続いている”という内側の経験を示し、パーフィットは“それで十分だ”と理論化する。
この二つを合わせると、ビーム転送後の人は、少なくとも人格的には「本人」と考えるのが自然なのです。

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この記事を書いた人

人間とは何か、暮らしとは何か。
そんな関心を出発点に、農・経済・歴史・生活・哲学・科学を横断しながら書いています。
食や土地の話を入口に、制度や社会の動きを見つめ、歴史の流れをたどり、哲学で問いを深め、科学で確かめる。
一念三千を胸に、日々のことを少し広く、少し深く考えるブログです。

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